4/16/11
「東北のともだち (Friends of Tohoku)」at Galerie Quynh
image: courtesy of Galerie Quynh
ティファニー・チュンとパメラ・コリーが共同で主催する企画展「東北のともだち (Friends of Tohoku)」がベトナム・ホーチミン市のGalerie Quynhで昨日から開催中。収益金は日本赤十字社を通して被災者支援活動に寄付されます。
何か、日本のためにしたい!と立ち上がってくれた友人たちに感謝の気持ちで一杯でひとりでも多くの人が参加してくれれば良いと願っています。
しかし、水を差すようで嫌なのですが、ひとつだけ言いたいことが。
私のベトナムでの長年のパートナー、Sue Hajduは私が知りうる限り、このチャリティーの参加者の誰よりも日本との関わりが強いアーティストです。そしてまさに地震さえ起こっていなければまさしく今、南三陸町や八戸で昨年に引き続きアートプロジェクト開催中でした。彼女にとっては仙台や南三陸など昨年滞在してたくさんの友人を作ったエリアの被災は大きなショックで彼女の心痛は相当なものです。彼女は今年の夏以降に来日してアートを通じて(もしくはアート活動以外でも)何か被災者に貢献したいと今いろいろと計画を立てています。
その彼女がこのチャリティーのリストに入っていなかったので、早速確認したら彼女はこの展示会の存在すら聞かされていなかったとのこと。同じ街に住んでいて、誰もが彼女の日本との関わりは知っているのに。
結局彼女の見解では、キュレーターというよりも、その背後にいる人物との過去の芸術的意見の相違で摩擦が起きたことなどが原因だそう。こういう機会にまたサイゴンのあの狭ーいアート界の政治を見せつけられて嫌悪というよりもシラーっとしてしまった私です。
まぁ、これはあくまでも展示会関係者のごくごく一部の権力がある人とのいざこざであって、参加アーティストのほとんどは日本のことを心から思ってくれている人たちです〜!
詳細は下記から:
Tohoku no Tomodachi
Friends of Tohoku - Art Fundraiser for Japan
Những người bạn của Tohoku - Triển Lãm Mỹ Thuật Gây Quỹ vì Nhật Bản
April 15 - 29, 2011 / Galerie Quynh, 65 De Tham St, Dist 1, HCMC
Please join our opening reception on Friday, April 15, 6-8pm and show your support for Japan! Exhibition continues to April 29.
4月15日午後6時からのオープニングレセプションに是非おいでください。また29日までの展示も是非ご覧下さい。
Xin mời mọi người đến tham dự khai mạc triển lãm vào thứ Sáu,15 tháng 4, từ 6-8pm để ủng hộ và đóng góp cho triển lãm gây quỹ vì Nhật Bản. Triển lãm kéo dài đến 29 tháng 4.
In response to the recent disasters that have struck Japan, seventeen artists from Vietnam as well as the international community have contributed artworks to raise money for Red Cross Japan. These artworks, comprising various media including painting, drawing, installation, photo and video, will be shown in the exhibition “Tohoku no Tomodachi (Friends of Tohoku): Art Fundraiser for Japan,” organized by Tiffany Chung and Pamela Corey in collaboration with Galerie Quynh. From April 15 -29, works by this group of artists will be available for purchase (with prices ranging from US$300 to US$10,000) and 100% of proceeds from sales will go to Red Cross Japan.
3月11日に日本を襲った東北地方太平洋沖地震の被災者救済のために、ベトナムおよび世界で活躍する多数のアーティストが協賛、無償で作品を提供し、ベトナム・ホーチミンにてエキシビションを開催いたします。
協力会場のギャラリークィンでは、17名のアーティストから提供される様々な作品(絵画、インスタレーション、ビデオなど、300〜10,000USD)が展示販売され、収益は全て日本赤十字社に寄付されます。
ティファニー・チュンとパメラ・コリーが共同で主催する企画展「東北のともだち (Friends of Tohoku)」へぜひご来場下さい。
Hưởng ứng lời kêu gọi từ những thảm họa đã tấn công Nhật Bản gần đây, mười bảy nghệ sĩ Việt Nam cũng như cộng đồng nghệ sĩ quốc tế đã đem tác phẩm của mình để bán gây quỹ cho Hội Chữ Thập Đỏ Nhật Bản. Những tác phẩm này bao gồm nhiều thể loại như tranh sơn dầu, tranh vẽ nét, sắp đặt, nhiếp ảnh và video sẽ được trình bày trong triển lãm mang tên ‘Tohoku no Tomodachi (Những người bạn của Tohoku): Triển Lãm Mỹ Thuật Gây Quỹ vì Nhật Bản’ được tổ chức bởi Tiffany Chung và Pamela Corey, cùng cộng tác với Galerie Quynh. Từ ngày 15 tới 29, các tác phẩm sẽ được bán (với mức giá từ US$300 tới US$10,000) và 100% số tiền thu được sẽ được chuyển tới Hội Chữ Thập Đỏ Nhật Bản.
■Participating artists / 参加アーティスト / Các nghệ sĩ tham gia:
Bùi Công Khánh (Vietnam) / Tiffany Chung (Vietnam/USA) / Đỗ Hoàng Tường (Vietnam) / Hoàng Dương Cầm (Vietnam) / Goh Ideta (Japan) / Roslisham Ismail a.k.a. Ise (Malaysia) / Đinh Q. Lê (Vietnam/USA) / Sandrine Llouquet (Vietnam/France) / Tea Mäkipää (Finland/Germany) / Michikazu Matsune (Japan/Austria) / Nguyễn Tấn Cương (Vietnam) / Nguyễn Kim Tố Lan (Vietnam) / Nguyễn Trung (Vietnam) / Nguyễn Đức Tú (Vietnam) / Sudsiri Pui-ock (Thailand) / Keisuke Takahashi (Off-Nibroll, Japan) / Mikuni Yanaihara (Off-Nibroll, Japan)
In conjunction with the exhibition at Galerie Quynh, there will also be original creations by fashion designers Chương Đặng (Vietnam) and Chương Phạm (Vietnam/USA) available for sale at the gallery, from which all profits will be donated to Red Cross Japan.
ギャラリークィンではこのエキシビションと平行して、ファッションデザイナーのチュン・ダンとチュン・パムから提供された作品も販売され、収益は日本赤十字社に寄付されます。
Kết hợp với triển lãm tại Galerie Quỳnh cũng sẽ có những thiết kế của các nhà thiết kế thời trang Chương Đặng (Việt Nam) và Chương Phạm (Việt Nam/Mỹ) sẽ được bày bán tại tại phòng tranh, và tất cả các lợi nhuận thu được sẽ được quyên góp cho Hội Chữ Thập Đỏ Nhật Bản.
Contact / Liên hệ: Julie Dao Duy or Tung Mai(English & Vietnamese / 英語・ベトナム語)
◇ tel/fax: +84 8 3836 8019 ◇ info@galeriequynh.com ◇ www.galeriequynh.com
◇ Gallery Hours: Tuesday - Saturday, 10am - 6pm
◇ giờ mở cửa: thứ 3 tới thứ 7, 10h sáng tới 6h tối ◇ オープン時間10am−6pm(日・月休)
4/15/11
騙した人 騙された人
こういう形でブログに掲載していいのかためらいましたが、すでにネット上で評判になり様々なところで閲覧が進んでいるので掲載を決めました。今読むことに意味があると思ったからです。もし掲載に問題があるようでしたらmotoko628@gmail.comまでご連絡ください。すぐに削除します。ちなみに青空文庫のリンクはこちらです:http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/card43873.html
「戦争責任者の問題」
by 伊丹万作
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』昭和二十一年八月号)
「戦争責任者の問題」
by 伊丹万作
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れられない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりとしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念をもちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。
戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。このばか正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発企人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然いい分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する破目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疏通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』昭和二十一年八月号)
4/13/11
絵本の家 Ehon House 〜海外絵本とカフェの店〜 in目白
近所をお散歩中に、素敵な本屋さんみつけましたぁ!
海外の絵本を扱う専門店。もともとは本屋さんに輸入絵本を卸すだけの会社だったのが、ショールームもオープンしたそう。本だけでなくて、素敵なポストカードやぬいぐるみなどもあってとにかく店内を見ているだけで楽しい楽しい♥
英語の本だけでなくドイツ語、フランス語、ペルシャ語、ハングル語,etc, ベトナムの絵本まであって、とにかくすごい品揃え。
目白駅から千登世橋に向かって徒歩5〜6分。目白通りにあって、学習院大学のすぐ近くです。
営業時間:平日12:00~18:00, 週末&祝日11:00~18:00
定休日:年中無休(年末年始を除く)
詳細はウェブサイトから:http://www.ehon-house.co.jp/
4/8/11
これから。
昨夜強い余震があった。東北では亡くなられた方、そして負傷者がまた多く出た。宮城県の友人の話では、今までなんとかもっていた彼女の会社の社員宅は昨日の余震でついに倒壊したそうだ。原発の問題も引き続きあるし、昨日は余震の影響で宮城県の女川原発でもあわや事故か?!というさま。大震災から約1ヶ月。まだ緊張の日々は続く。
でもそんな中でも子供は着々と成長し、バルコニーの花は芽吹き、近所の桜は満開になる。
春うららかな日に東京の街を歩いていると一ヶ月前の震災などすべてのことが一瞬すべてまぼろしだったかとさえ思える瞬間がある。
でもしっかりとそこにはみんなで力を合わせて対処していかなければいけない課題がたくさんある。これからだ。すべては。
4/7/11
放射能関連情報
image by Zac Neulieb
東京コメディストアの創設者であり、現ディレクターのChris Wells。彼のナレーターとしての仕事は定評があり、テレビのドキュメンタリーや企業CMなど多方面で活躍しているので声だけでも聞いたことがある人は多いかもしれません。
その彼が今回の放射能関連の情報をよくまとめたものが手に入ったので転載します。
原子力の専門家ではない彼ですが、とても分かりやすく状況説明していると思いました。
原文のままなので英語のみになってしまいます。時間ができたら翻訳したいと思ってはいますが、今のところ時間がありません。取り急ぎ英語だけでも掲載します。
以下Chris Wells氏の文章:
Living in Tokyo these days
Regarding the risks of radioactive particles in the atmosphere, I think there are a few misunderstandings causing smart people to talk past each other, both on my wall and friend's walls, as well as in the press.
Just yesterday, two people on a friend's wall were having a discussion that I followed with great interest. One was arguing that background radiation levels indicated Tokyo was safe. The other was saying that nobody knows the dangers brought about by fallout, or particulate matter that is radioactive, particularly fission byproducts like Cesium. I think they were both right, just focusing on different parts of the situation.
I wrote this to try and clear things up in my own head- any thoughts backed up by links to reputable sources would be appreciated.
Naturally occurring radioactive substances vs. fallout.
First, to get us all on the same page, this is how Geiger counters work:
http://en.wikipedia.org/wiki/Geiger_counter
After reading that we all know that everyday "background radiation" is measured by particles of radioactive material in the air brought about mainly by naturally occurring radioactive material in the ground, but also coal mining, bombs dropped years ago, and other industrial processes.
"Fallout" is what we call radioactive particles created by humans in bombs or power plants.
So, "background radiation" is caused by mainly natural sources of radioactive particles plus some old fallout that's become part of the modern environment, and what we call "fallout" is caused by human-made particles of more recent vintage.
The question is, is that a distinction without a difference? It is not. The danger is that the man-made particles can be extremely dangerous, more dangerous than most naturally-occurring particles, and that is what everyone's worried about. It's also why we have two different ways of referring to radioactivity in the atmosphere.
The next question is, how exposed are people to these particles? In what concentrations? Confusion arises when we forget that concentrations in the vast atmosphere on earth expressed by geiger counters must then be converted into oncological probabilities for them to have any actual meaning in our daily lives.
Radioactive cows.
For example, closer to Fukushima, Kyodo News reported that some beef was found to contain radioactive substances 10% higher than the legal limit, but upon retesting the Japanese Health Ministry reported that the first reading was wrong and there was no need to worry, something that has raised a few eyebrows. Those cows with the disappearing Cesium were in trouble before they were slaughtered and examined if they really were contaminated, agreed. From what I've read, the cows would have passed the water-soluble Cesium out of their system in a few months. How big a dose they would have received during that time and its effects would vary by cow. But humans are not cows, and the primary ingestion route of chewing on grass for hours on end is not an issue for us, as long as we don't eat their flesh or drink their milk.
So, even if the cows 70 kilometers away from Fukushima had dangerous levels, it is entirely feasible that the farmers tending to them did not. That they washed off the radioactive particles in the shower. But, and here's the rub, there is a chance that a particle or two got into their bodies. This would not be good at all and could lead to cancer. What is that probability? That is what we are discussing here. And nobody is quite certain.
Background radiation vs. individual radioactive particles.
The use of background radiation is a stand-in for probability, something all the specialists in the field are aware of, have thought about for decades, and too often do not successfully articulate to the public. What they mean when they reassure us with those numbers is that they estimate that the statistical probability of someone in, say Tokyo, ingesting a particle and then years later dying of cancer is negligible.
They are not lying, they are not not telling us the truth. They are going by the best science they have, which is, as has been correctly point out, not as conclusive as many of us would want. We don't know for sure- that's what I keep reading about extremely low-level exposure to radioactive particles in the atmosphere around us. (Not to be confused with low-level exposure to radiation, which seems to have very little effect, and is a completely different topic. This distinction is almost never made in the press.)
It's almost as though we are discussing light and flipping between describing it as a wave and a particle, without letting people know when we're changing perspectives. As abstract oncological probabilities go, background radiation readings are comforting. But when we then focus in on actual ingestion of radioactive particulate matter, things get scarier.
But all of us do ingest things like radioactive iodine, radon and even cesium on a daily basis, just in vanishingly small amounts. Our bodies are not in a pristine, radioactivity-free state. And so we need to think in terms of oncological probabilities, or the stochastic effects of exposure miles away from the source.
And how about for Tokyoites?
But what exactly are the chances that one of us here in Tokyo ingested a particle of Cesium on the days when it was in the air in Tokyo in extremely low amounts? I think what the experts are trying to tell us is that it does not rise above the level of danger presented by all of the other carcinogens we constantly breathe in in this big city. So it is not zero. But it is not raising our cancer risks statistically.
Cold comfort if you happen to be the person who is affected! But by living here we are all increasing our risk of lung cancer, etc., simply due to the atmosphere of a big city. The anthropogenic and highly unusual nature of the threat being discussed certainly raises our levels of caution, as it should, and I think that's a healthy response.
Up further north? I wouldn't want to be within, say, 100 miles of that plant. There is a bullseye around that disaster, with each ring towards the center increasing the chance of a "man-ichi"/highly improbable health effect, all the way down to standing in water that will kill you in minutes. I wouldn't want to take the chance. If a plant closer to Tokyo had a similar problem, I'd be thinking seriously about whether to stay here.
Down here, I look at it this way: What are the chances of me breathing in a single molecule of water emitted by an onsen in Fukushima? Not zero. But not probable. Whether or not that's comforting to each of us depends on our nature. The risk is not zero, and honestly will never be for anyone on the planet. That's why I'm staying here. But if those geiger counters go up, I won't ignore that data, either.
Sources:
Beef story: http://english.kyodonews.jp/news/2011/04/82608.html
I'm really using general knowledge gleaned from many sites, but the EPA covers just about everything regarding radiation on its website:
http://www.epa.gov/radiation/index.html
PS: These were just published in the NYT yesterday- I read them after I wrote this note, and they summarize the basic information and don't contradict anything above. But again, they don't quite get to the point the way someone actually living here in Tokyo would like. Seems nobody knows if the very good study involving Hiroshima survivors is applicable to our situation.
http://www.nytimes.com/2011/04/05/health/05primer.html?src=recg
http://www.nytimes.com/2011/04/05/health/05radiation.html?src=recg
And this from the Guardian:
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/apr/05
4/4/11
チャリティーコンサートのお知らせ
image by Rob Dobi
私が東京本部副代表を努める非営利団体LAFFOO(ラフー)では、毎年アジア(現在はヴェトナム、ネパールとカンボジア)の子どもたちへの教育支援のために東京と関西(大阪)でチャリティーコンサートを開催して参りました。
この度の東日本大震災により被災した日本の子どもたちに微力でも支援できましたらと関西支部の提案により「LAFFOOさくら基金」を新たな支援として設立させていただくことにいたしました。
多くのネットワークを駆使し、被災地の子ども達の実情を把握し、慎重に支援内容を決めて参りたいと考えております。
今年のLAFFOOチャリティーコンサートの開催は下記の予定でございます。
◎ 6月30日(木) 東京・サントリーホール(小ホール)
◎ 11月 3日(祝)関西支部・ホテル日航大阪
6月のコンサートの収益金は全額震災の復興支援プロジェクトに寄付、そして11月以降のコンサートからも収益金の一部を継続的に寄付してまいります。
少しでも多くの支援ができますよう、皆様のご参加とお力添えを心よりお願い申しあげます。
詳細はラフーオフィシャルブログをご参照ください:
http://laffoo.blogspot.com/
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