4/28/13
思い起こせば。。。
思い起こせば18年前。アメリカの希望の大学に入るために私は2つのテストを受験した。
私は日本の高校からの進学組だったので留学生の英語力証明のためのTOEFLだけではなくて、米国の高校生が全員受けるSAT(大学進学適性試験)も受験しなければいけなかった。
SATは英語と数学で構成されている。英語はもちろん英語がネイティブの高校生用に作成されているのでとにかく時間内に問題をおえるのに必死だった。ラッキーなことに数学が簡単だったので(日本でいう“算数”のレベル)合格基準のスコアは(何点かは忘れたけど)無事クリア。一方、TOEFLは550以上が入学基準として定められたスコアだった。当時大学院入学に定めたスコアが550のところもあったくらいだから大学で550は高いゴールだった。でも模擬テストなどでテストの形式に慣れたことも手伝ってこちらもクリア。
帰国子女でもない日本から来た新大学1年生にしては英語力はあるほうだと自負していた。
しかし実際大学の授業が始まってみると思ったように聞き取れない。人より充分に予習に励んでいっても(リーディング終えるのも必死だったし、涙)その予備知識をもってしても聞き取れるのが半分以下だったりすると本当に悔しかった。
授業を録音して帰宅してまた聞きながら、何度も聞き取れないところを巻き戻して再生して、それでも「はぁ?」って時もあって最初の1年間はクラスメートのノートを借りたり、もう先生の話している内容というよりも声のトーンとか表情、周りのクラスメートのノートを取る忙しそうな音が聞こえると「あっ、ここはきっとテストにも出るポイントなのかな」などと学問とは関係のない部分で単位を取るためにサバイバルするコツを身につけてなんとか乗り切った、笑。
有り難い事に最初の2年は一般教養項目が多くて専門性が薄かったからなんとかなった。そして3年目からは英語力がついていくようになって、“学問としての授業”を楽しめる余裕がやっとでてきた。それでも先生によっては話し方に強い癖があったりして苦戦することもあった。そしてやっと英語を話す事が体と脳みその一部になってきた最終学年、気がつけばもう卒業!
卒業後の人生も私は海外で英語をつかう環境で仕事をしてきたのでこの米国時代は私の人生で大きな役割を持つわけだけれども今更ながらあの時にもっと最初から英語力が伴っていたらどんなに学問的知識が増しただろうかと思う。違うキャリアを目指していた(目指す事ができた)可能性だってある。
人生はずっと勉強、とは良く言ったもので、学ぼうと思えば本をはじめ様々なメディアを駆使すれば独学も可能だと思う。でもやはり素晴らしい教授陣の講義やセミナーで刺激され、またクラスメートとディベートするのは何にも代え難い経験だと思う。
今モンテッソーリのコースに通いながら(大学時代の講義ほどアカデミックではないものの)宿題のリーディングも問題なくこなせ、講義中もノートを詳細に取りながら、同時に先生の話を聞き(大学1年の頃はノートを取り出すと取っている間に先生の話してる次のことを聞き逃してたもの、笑)隣の席の子が落とした鉛筆を拾ってあげながら、先生の話していることに質問も湧き、その質問が今挙手して聞くに値する質問かも判断し。。。要するに講義を聞くためのあくまでもツールである言語(=英語)に足を引っ張られる事がなく集中できることが有り難いと思う。
そして18年前の大学時代、英語が母国語(レベル)として同じ教室で同じ講義を聞いていたクラスメートを思い浮かべながら<あ〜、今の英語力が18年前にあったらさぞかし知識見聞をもっと広げられただろうに>とちょっと悔しく思うのである。
国際社会で生きて行くための英語力取得を主な目的として留学を検討している人は(親御さんも含め)多いと思うけれど、家族の都合などで10歳前までに海外に移住して子どもの脳で英語を取得できる環境ならともかく、成人の脳みそになってからの場合は、もしかしたら自分の得意の言語でどっぷり深く学べる環境で大学時代を過ごし知識量と共に深く思考する力をつけた上で、大学院など専門性の高いレベルで留学するほうが良いのでは、と最近はよく思う。
高校から英語圏に留学してそのまま現地の大学に入学する場合などは、大学入学時には英語力がネイティブの7割程度はある、という場合もある。しかし必ずしもアドバンテージばかりではなく、中途半端な英語力で(あまり危機感も持たず)そのままずるずると中途半端な知識の取得に終ってしまうことも留学時代に見てきたケースの中ではあるように思う。まぁ、すべてはその本人の向上心にかかってくるので一概には言えないけれど。
時間を戻すことはできないから、ここでぐずぐず言ってもしかたがない。今このタイミングで与えられた学びのチャンスをフルに楽しみたいと心から思う今日この頃なのである。